表紙 よもやま話 きものの話 きのの相談 サロンコンサート 画廊 店内 展示会 サイトマップ  

今月のよもやま話

平成13年4月・卯月

行け行け!! 押せ押せ!!(豊臣秀吉)

●私、西室博史と言います。よろしく、お願い致します。
記念すべき第1回目ですので、気合を入れてお話をします。
縁起が良い、出世頭の話です。
「行け、行け!!押せ、押せ!!」の話です。
●ご存知・賤ヶ岳の合戦。約420年前の4月の事でした。
「敵は、本能寺に有り」の言葉で有名な事件の翌年、
羽柴秀吉と柴田勝家の織田家相続争が起こりました。
この時の戦いが、賤ヶ岳の合戦です。
●賤ヶ岳とは、琵琶湖の北側に有る小さな山でして、
この山のさらに北側に
小さな湖「よごのうみ・余呉湖」が有ります。
●ここの周辺で秀吉と勝家が約1ヶ月もの間にらみ合い、
膠着状態となっておりました。
その時、何故か秀吉が岐阜城へ向かい、戦場を留守にします。
この留守のすきに、
勝家の甥の佐久間盛政[鬼玄蕃]が、秀吉側の陣地に戦を仕掛け、
見事砦を落としました。
この時、叔父勝家との約束通り、
すぐ自分の陣地へ戻れば良かったのですが、
「秀吉は岐阜城で、まだまだ帰って来ない」
と思い込み戻りませんでした。
その秀吉は、豪雨の為、
川が氾濫し大垣で足止めを食っていたのです。
●4月20日昼頃です。
秀吉に「賤ヶ岳の砦の陥落」の急報が入りました。
この時、秀吉は、食事をしていて「我、勝てリ」と叫んで、
箸を落としたと云われております。
すぐに陣を引き払い、賤ヶ岳へ引き返す命令を出しました。
街道の住民には、握り飯と塩を用意させ、それを食べながら、
「走れ、走れ、止まるな、走れ、」と、
ほとんどの人が地図も無く、
道順もわからない不案内な道を全速力で走りました。
夜は、街道の住民が用意した松明の明かりをたよりに走りました。
大垣から賤ヶ岳の麓「木之本」まで
50キロを5時間で走り抜けたそうです。
●昔の人は大変でした。
極少数ですが、馬に乗った人は、まだ良いです。
それでも、股ずれができたり、お尻が真っ赤に腫れたでしょう。
ほとんどの人が自分の足で走ったのです。
いくら走り慣れてる、とはいえ50キロは長いと思います。
酸欠で、そうとう苦しかった、でしょう。
あの狭い街道を15、000人もの人が走ったのです。
街道の住民はびっくりしたでしょう。
●午後9時ごろ木之本に着き、
鬨の声を上げさせ、夜営中の勝家軍めがけて一気に突撃しました。
この時、秀吉は、
小姓達に「功名を立てるは今ぞ!我と思わん者は突っ込め!」と、
大音声を張り上げました。(秀吉は大声で有名でした。)
小姓達は、「それ行け」と、一気に駆けて行きました。
そして、めでたく勝利を治め、
秀吉の天下へと、一歩近づいたのです。
●彼ら小姓とは、福島正則加藤清正加藤嘉明
脇坂安治・片桐且元・平野長泰・糟屋助右衛門尉・
桜井左吉・石河一光の9人です。
この内、2人[桜井左吉・石河一光]が早死にした為、残った7人が、
後世「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれ、出世の代名詞となりました。
七本槍は「小豆坂の七本槍」から、
「七」は「竹林の七賢」等、古代中国では縁起の良い、
特別な意味のある数です。
●実は、私、数年前に、賤ヶ岳へ登った事が有りまして、
かなり急だった様な気がしました。
今は、リフトで簡単に登れますが、
ここを、足軽達が胴丸を身に附け、全速力で50キロ走ったあと、
この山を登り戦をした。とても辛かったと、思います。
頂上には、老武者が槍にもたれ掛かって、
休息している像が有りました。
やっぱり、と思います。下の写真が、そうです。


家の子も、歴史がやはり好きで、
「歴史の舞台」に来た、という事で満足げな顔で写っております。
今回は、少し長くなりましたが、これにてお仕舞いです。
有難うございました。
●5月のよもやま話は「男だ、うだつを上げよう。」です。
又、聞いて下さい。

ご指摘・ご意見等ありましたら、是非 こちらまでメール下さい。

以前のよもやま話へ
表紙へ戻る

Copyright 西室 博史2001