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今月のよもやま話

平成13年7月・文月

49万石の墓(福島正則)

●今月は福島正則が亡くなられた月です。
私のお店が所属している商店会で他商店街視察行事が有ります。
数年前、この行事で小布施に行きました。
中央高速を長野道に乗り継ぎ須坂インターで下り、
国道403号で30分位走った所に小布施の町が有ります。
この町の岩松院[下の写真]に福島正則の墓が有ります。
一段と高く積み上げられた石垣の上にお堂が作られ、
その中に立派なお墓が有りました。
安芸・備後49万石のお殿様のお墓です。
●福島正則と言うと、
乱暴者で黒田節と賤ヶ岳七本槍がすぐ思い浮かびますが、
黒田節はともかく、七本槍は、
本人としては、気に入って無かったようです。
賤ヶ岳では、正則が加藤清正と並んで名高い敵将の首を取り、
一番の功名手柄が有りました。
他の5人は、実際の所この2人の手柄より数段下であったそうです。
そこで、「七本槍」の話をすると、
いつも彼は、「ばかばかしい。」と不機嫌になったそうです。
「虎之助[清正]は良いとしても、
他は、人数を揃える為に、名を連ねただけだ。」
「一緒にされては、迷惑だ。」と、彼は言っていました。
●藤原惺窩が、正則の事を「無知な人間が威張っている」
と言うくらいだから、かなり恐れられていたのでしょう。
しかし、彼は、まれに見る人情深いたちでした。
●さて、関が原の役には、
徳川方の先鋒を務め、安芸・備後49万石を家康より与えられました。
●元和3年、広島城下(正則の城下)を流れる太田川が雨で氾濫し、
広島城の石垣塀が壊れました。
そこで、正則は参勤交代で帰国する際、
老中本多正純に修復の許可を頼みました。
帰国後、再度正純に書状で催促しましたが、なしのつぶて。
「石垣程度なら…」と正純が言ったのを思い出し、修復工事を始めました。
元和5年4月、参勤交代で江戸に着くと、
待っていた様に幕府から石垣の無断修復を咎められました。
言掛かりを掛けられたのです。
そして6月、
幕府軍が一戦を覚悟して広島城を包囲し、城の明渡しを要求しました。
正則は、「今は泰平の世。
ここで乱を起こし、領民を苦しませたなら恥じの上塗り。
故太閤殿下[秀吉]にあの世で、逢わす顔が無い。」
「我は弓なり、乱世の用なり。
今治世なれば、川中島の土蔵に入らるるなり。」
と神妙に広島城を明渡しました。この明渡しは見事であったそうです。
そして、ここ信濃川中島45,000石に左遷されました。
●《内府[家康]に騙された。
あの時、治部少め[石田三成]の言う事に耳を傾けていれば、
こんな事にはならなかった。自分が情けない。》と悔やんだそうです。
寛永元年7月没64歳でした。
小布施の大きなお墓は、「誇り」と「無念」とを物語っていると思います。


●写真、左より、八王子カメラ様、セブンイレブン様、小生、
手前に小坂時計店様、
写真提供は、梅寿司様です。
●今月は、これにてお仕舞いです。
有難うございました。
●8月のよもやま話は「米沢の話」です。又、聞いて下さい。

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Copyright 西室 博史 2001